2011/04/03

地震の日に

新聞記事を扱っていて、いわずもがな地震があった11日の前か後かが大きな分岐点になりました。
11日前に書いた記事の中には使えないものが増えました。
商況、決算予想はもちろん。
(そんななか、私は去年の決算の記事を載せるという大きな事故をやらかし、しかし色々なことが重なっての事故なため、誰にも責められず、誰もがどうでもよさそうでした。
上司に改めて謝っても「超越しているから、いい」と言われました。
自分でも忘れてしまいそうなので、記録。)
11日に東京がゆれて避難した時は、東京でも揺れるんだなあと、呑気でした。
震源地が遠くで、それも宮城と知るまでは、同僚と避難した公園のブランコに乗ってみたり、写真をとってみたり笑っていました。
最近、少しずつ、被災地の人が11日の3時頃から数十時間、どのような経験をしたのか、多くの人がどのように死んでいったのかを知れるようになりました。

実家の地域(佐沼)では、飲食店に行く人もあまりいないし、日が暮れ外に出ている人もいないということです。
「それでは飲食店の商売が大変ではないか」
「みんな大変でも我慢している。志津川(南三陸町)の人のことを思うと」ということです。

今、実家には家を流されてしまった人7人暮らしているらしいです。
隣の飲み屋さんにも、家を失った家族がやってきたらしいです。
スーパーは店が陥没しているため、駐車場で売っていて、置いてあるかごの分しか買えないから、並ぶんだそうです。そんな時でも、志津川の人だって分かると、みんなで「よく来たごと~」と言って、優先的に買わせてあげるらしいです。

佐沼はどちらかというと都会的なもので
こんな人情的だとは思っていなかったから、聞いているとすごいじゃないか、と思います。

GWに、帰省する計画。休みとれるかしら

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