何年ぶりか、今年は日記をつけていない。
紙に文章を残す始末の悪さ、文章を書く環境の喪失、日記帳を購入する金銭(的感覚)の欠如
などがその理由だが、書き留めたいこと且つ人前に曝したくはないことが、やはりあるもの。
しかし、億劫。
とりあえず昨日わたしが心うごかされた言葉をここに書き留めておきます。
「まずは、できる、って思うんだ。で、やってみて、これじゃだめだって思う。必ず思うはず。思わなきゃだめなんだ。それでこうしなきゃと頑張る」
「ページを見るとき、そのページの編集意図を考える。どんなものにも意図があるから」
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これは編集者の言葉ではありません。雑誌を作るデザイナーの言葉です。
言葉がまっすぐな人でした。自分の浅はかな純粋さや真面目さがただの考えなしだということが分かりました。
この1月はすごい。
自分はどうやって金を稼ぎ、何を生業として生きていきたいのか、考えています。
俳句の会社に入ったとき、わたしは落ち着ける、と思いました。
腰をすえ、働いて、お金が入る!それに
編集長になりたいと思ったり主任になりたいと思ったりするかもしれない、
自分の本も出版できる道がそこにある、
やりたいことをやっている人と働ける、
生涯文学に触れてゆける学んでゆける
と、喜んでいました。
でも、現実は違いました。時期が悪かったと周りの方々は口を揃えていいますが、時期に関係のない決定的な違和感がありました。
俳句には、いまのわたしの思考を支える貧乏と破壊力と笑顔がなかった。
今や文学は、貧乏とは無縁です。
貧乏……
俳句は、世の中を楽しませていない。なんの衝撃も与えていない。
しかし、そういう田舎(俳句の世界)を守らなくては!と思うのが俳句を愛する人。
愛せないから、わたしは破壊する前に、笑い飛ばして馬鹿にする前に去る。
そういうことだったのかな?
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